創業安政三年
150年以上の歴史を紡ぐ、
三島うなぎの老舗

独自の焼きと、家伝のたれが醸し出すふわりと柔らかな口当たり。
「かるみ」と「旨み」にこだわって
創業以来変わらず、うなぎの味の真髄を追求しつづけています。

創業安政三年の長い歴史を誇る桜家では、富士山の雪解け水である伏流水にうなぎをさらすところから料理が始まります。
自家井の井戸水に3日から4日の間さらすことで、うなぎ特有の臭みが消え、うなぎの身も程よく引き締まります。
しかしこの効果はつねに新鮮で質の良い流水にさらしつづけることでしか現れないそうで、これも清らかな富士山の伏流水をふんだんに使える三島ならではの仕込み方だと言えるでしょう。

「裂き三年、串うち八年、焼き一生」とも言われるうなぎ料理。中でも極めて高い技術と感性が必要とされるのが「焼き」です。
桜家では備長炭を使用していますが、炭火の火力によって直接焼くのではなく、炭火の火力をうちわで微妙に調整するのが肝要で、そこに特に高い技量が要求されるのだそうです。

一般のうなぎ店とは異なり、長い串にうなぎを差して焼くという伝統を持つ桜家。これが桜家独自の味わいの秘密の一つとなっているのですが、その分だけ焼きを均一に入れられるだけの高い技能が要求されり、老舗の桜家でもこの焼きを任せられる職人は限られているとのこと。
ひと串ごとに、その日の気温や湿度からうなぎの個体差までをも瞬時に見定め、長年の経験と勘、そして絶妙のうちわ捌きによって、すべてのうなぎが最高の状態になるようにきめ細かな配慮を行っています。
それだけの高い技術を持つ職人にあっても、うちわの使い方や焼きのタイミングなどがごくわずかに異なり、それがうなぎの味わいにも繊細な個性の違いとなって表れるということからも、うなぎの焼きとはどれだけ技術の深奥を追求しているものなのかを伺い知ることができます。

そんな奥深い焼きですが、「味を八割方決める」とも言われる白焼の段階でしっかり火を通すのが桜家流。千二百度にもなる高温の炭火で焼いたら、銅製のせいろで蒸しを入れ、家伝のたれに漬けてもう一度焼いてと、丁寧な手作業が続きます。
旨味のある脂をほど良く残しながら、皮が焼け、身の表面もかりっと仕上がれば、それが桜家のこだわりである「かるみ」の体現。
職人が手に感じる串の重さの変化で、この「かるみ」を感じ取るのが極意なのだそうです。

三島のうなぎを語るのなら、150年の時を超えてうなぎの真髄を追求しつづける桜家の味を、ぜひ体験してみてください。

三島うなぎ

Mishima eel (Anguilla mishimaensis)

三島の湧水が磨く、うなぎの味

三島の湧水は、富士山生まれ

三島市内に点在する多くの湧水地から湧き出る水のふるさとは世界文化遺産・富士山です。
富士山の年間降雪・降雨量は22〜25億トンと推定されますが、川のない富士山ではその多くが山体の地中に浸透していきます。
富士山の表面を覆う新富士火山層はとても浸透度の高い富士火山礫で覆われ、雨水がすぐに地下にしみ込んで行きます。しかしこの層の下にある古富士火山や小御岳火山、先小御岳火山などは水を浸透させない地層となっているため、地中に浸透した水は新富士火山層でチリやホコリをろ過された後、水を通しにくい地層の表面を長い年月をかけてゆっくりと流れていき、清らかな水となって三島市内で湧出するのです。

名水が、うなぎをさらに旨くする

水の分子は単体では存在せずに分子集団(クラスター)を作りますが、このクラスターが小さいほど酸素やミネラル分を含みやすいため「良い水」「美味しい水」と呼ばれます。一般的な水道水では10数個〜60個の水分子でクラスターが構成されていますが、名水と呼ばれるような水はこれがわずか5〜6個。こうしたクラスターの小さい水は「活性水」とされ、飲み物や料理をさらに美味しくする効果を持っているのです。
三島ではうなぎ店がうなぎを仕入れると、必ず数日間に渡ってこの富士山の湧水にじっくりと晒します。この工程を経ることでうなぎの生臭さや泥臭さが消され、豊かな旨み成分を減少させることなく、うなぎの身を引き締めることができるのです。富士山の名水によって、調理の前の素材の段階ですでに磨きがかけられていること。それが三島のうなぎが旨いと称賛される大きな理由のひとつとなっています。

三嶋大社にまつわる、
「うなぎは水神の使者」の言い伝え

三島では古くから市内の川に数多くのうなぎが生息していましたが、いつの頃からかうなぎは三嶋大社の「神池」に棲む神の使者や水神様の化身として崇められ、うなぎを食べると大明神の神罰が当たると言い伝えられるようになりました。
これも豊かな水に恵まれた三島ならではの水神信仰を物語るもので、その習わしは江戸時代末期まで連綿と続きました。
そんな三島でうなぎが食べられるようになったのは一説によると明治維新の頃のこと。薩摩・長州の兵隊達が三島に宿泊した際、この言い伝えを知らない兵士が争ってうなぎを食べたにも関わらず、何の神罰も当たらなかったことから、三島の人々もうなぎを食べ始めるようになったと言われます。
とは言え神の聖地である三嶋大社に限っては、近年までこの禁忌が引き継がれ、社地内でうなぎを食べられるようになったのは戦後になってからのことなのだそうです。

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